ローリングあざらし撲殺活動記録

その軌跡。議事録。文章置き場。その他なんでも。

2020年11月28日にやる活動 参加者募集中!!

 

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写真はわれわれの活動と全く関係ありません

11月28日に下記のような活動をやります。参加者募集中!!

 

半日くらいで出来る演劇的な活動のお誘いです。

友人、知人、そうではない方、戯曲を書くことに興味のある方牛が好きな方時間がある方

以下の企画書にピンときましたら、ぜひ御連絡を!!

 

◎★◎▲◎★◎▲◎★◎▲◎

Wikipediaから戯曲を作ろう「ミノタウロス」篇』

◎【企画意図】

 今、ミノタウロスが熱い(私の中で)きっかけは何だったか忘れたけれどWikipediaミノタウロスの項を見ているときに「これは戯曲になるぞ」という実感が湧いた。

 神話。色々な登場人物が出てきて、突拍子もない行動をする。不幸な運命。恋。闘い。むちゃぶりされる発明家。怪物の誕生。どの場面を切り取るかで作者の個性が出るし、簡単にドラマが生まれそうな内容が盛りだくさん。

 おそらく他にもまだまだWikipediaには戯曲になりうる、もしかしたらもっと相応しいものがあるかもしれないが、今回はこの牛の話。

 戯曲を書く人(経験は問わない)が複数人集まって、お互いの発想や手練手管を披露しあうという場はとても有益だと思うけれど、そんなにない。一つの題材の劇化を巡って、話し合い、実際にその手癖を見せあうことで劇作と言うものについて何か学びがあるのではないかと思い〼。

 

★【実施内容】 

・各自Wikipediaの「ミノタウロス」の項を熟読する

・話し合い

・それぞれシノプシス(あらすじ)を書く

・それぞれのシノプシスを発表、感想、意見交換

 

(時間があれば↑にエクストラで)

・一つのシノプシスを使って、皆でパート分けして制限時間内に戯曲を書く。(完成は目指さず時間で切る)

・繋げて読んでみる(黙読でも音読でも良い)

・感想を話して終わり

 

▲【日時等】

開催日時:11/28(土) 半日程を予定(11:00~17:00とか)

場所:都内の公民館など

対象者:友人、知人、企画に興味のある人

評価:記録を取って、後日まとめる。アーカイブにする。希望者に配布

 

◎★◎▲◎★◎▲◎★◎▲◎

 

他にもやりたいことを話したので、企画書にしたものをここに置いて行きます!

 

 

「センチメンタルな岸田戯曲を読みなおす」

https://drive.google.com/file/d/1FTTgJ5ayeecqd4RycrBj-uXmrJTEpq7P/view?usp=sharing

 

順次実行していければと思っています!

(企画書随時追加予定!)

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参加のご希望、お問い合わせは、

mawaruazarashi@yahoo.co.jp

まで!

今年のこと②&イベント告知など(しかし脱線)

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前回の記事から283日後の更新だそうだ。

時が経つのは早い。

 

皆さんも多くの方がご存知かと思われますが、コロナの影響で、様々なイベントが中止になりました。5月の文フリはなくなりました。

演劇の公演もたくさんなくなりました。

実施が決まっていたものだけではなく、まだ何も決まってなかった公演がたくさん消えたことだと思います。

範宙遊泳に『うまれてないからまだしねない』という作品がありましたが、

(みました。懐かしい。)

しねないかどうかはわかりませんが、うまれなかったことは確かです。

 

個人的なことを書くときりがないので、もう書きません。

色々予定が変わってしまいました。

今年はローリングあざらし撲殺として公演をすることはないでしょう。

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しかしながら、細々と続けています。

緊急事態宣言のあたりは全然、会いませんでしたが、

世間的にも「外に出てOK、むろし(ママ)金使え」みたいな感じになってきてから、

われわれは細々と会い(月1か月2で)お互いのやりたいことなどについて話しました。

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世間的にも色々緩和というか、ゆるみはじめ、結局のところ何がどうなのか無知な私にはわかっていませんが、とりあえず、自分で責任取れる範囲で、人と集まることを呼びかけることは可能になってきたんじゃないかと思いました。

しかし、あえて書き、思いますが、自分に責任が取れる範囲なんてわかりません。

責任、といえば、押し付けるイメージがあります。自己責任とか。

相手の責任とか。

クソみたいな言葉だと思います。

 

人が病気になると、まずい、とか。

気まずいとか、でもしょうがない、とか、

僕はしょうがないと思うけれど、相手がそう思ってくれない、とか、

色々な状況があると思いますが、責任という言葉はなるべく信じないようにしようと思います。

といっても、信じないだけで、たぶん、これからも日々使ってしまうし、

むろし(ママ)しょっちゅう言ってしまうような気もするし(俺の責任です。俺の責任じゃない)信じない、といっても、僕は人一倍信仰心が無く、それ故に、揺れがちで、自分が何を信じないと思っていたか、何を信じようと思っていたかを、毎日9割がた忘れて、ときどき思い出すように生きています。

 

さて、異常なにが痛いかというと、失礼、

以上、何が言いたいかと言うと、

脱線でした。

本線に戻します。

本線については次の記事で。

 

2020.10/28 大島

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今年のこと

われわれは相変わらず、継続的に活動している。

 

去年最後のミーティングは12月28日に、渋谷区代々木にある、非常に感じのいい、古いビルの中の一室で行われた。

小学校みたいな階段を3回分登った大きな部屋で、窓も大きくて、ガラス越しに代々木の街がよく見えた。

 

太陽がSUNSUNと注ぐ、年末らしい晴れた日だった。

 

すごく幸福感があった。

その日は、おもに今年やることについて話した。

 

2019年に一発公演を打てたことは僥倖だった。

モチベーションは上がった。何はともあれ、やった。動いた。

 

2020年も一発はやりてぇなぁ、ということから話は始ったが。

すぐに公演をやるとなるとどうも、あくせくしていけねぇや、という流れと、

「どういう公演したい?」「既成戯曲をやってみたい?」「なんで?」「演出の勉強になりそう」「演出の勉強?」「うん、演出の勉強したい」「それってどうすればできるの?」「さあ?」「勉強ってどうしたらできるの?」

 

という流れで、とりあえず、勉強をすることにした。

そこから、さまざま、勉強の話になった。

 

例えば、

「8月にやった公演(稽古)期間は、とても密度の高い1月だった。仕事の都合で、基本、土日のみとはいえ、人を呼んでみせるからにはと、ほぼすべての土日を稽古に当てたし、終盤は有給やらなにやらを駆使した。(ま、実際は、多くの時間が台本の話し合いなどだったけれど)仕事以外の時間は、ほぼ、公演関係のことをやっていたといっても過言ではない。……終わった後にふと思ったのだけど(お風呂に入っているとき)あの熱量、時間、労力をすべて勉強につかったらどうなるんだろう?」

 

つまり、稽古っていうものはかなり詰めてやる。

本番があるがゆえに、いやいやながらでも、やる。

時間をかなり使う。非効率極まるくらいに。生活を浸食するほどに。

 

これを、演劇の(演劇のためなら他の科目でも?)勉強に使ってはどうか?

つまり、稽古期間、みたいなものを勉強する時間にできないか。

ということを思いついた。

 

むしろ、稽古=勉強的な。

 

その話、から、また話は変わり、

とりま、文学フリマに、出店することに決めま、した。

 

それは5月。

これと勉強的な物を絡めれば良いのではないか?

 

その後、

同室に、大学院で、ダンスの研究をしていた人などもいたので、色々、勉強について、話した。

 

ということで、来年、いや、今年前半のローリングあざらし撲殺は、勉強をします。

その経過を、ちょっとでも、このブログに落として行けたらと思います。

(僕ももうすぐ、部屋にネットを引く予定なので、更新頻度は少しは上がるかも。)

 

最後に、この勉強計画について、掲げた原則(仮)

 

・勉強の目的は演劇をするため(目的があれば、おそらく良く勉強できる。)

・哲学的なところには踏み込まない(基礎教養のないうちからそこに踏み込まない)

 

そして

・「しんどいな、ってなったら、やめよう」

 

〜〜〜〜〜

われわれは、定期的に集まり、演劇にまつわる活動しています。

 

たとえば、今年は、勉強しつつ、公演をやります。

平時は主に、月1で、活動内容についてミーティングしていますが、

何かイベント事を計画して、その実践をしているときは、もうちょっと集まる頻度が高いです。

 

われわれには、それなりに、友人がいて、ときどき、友人も含めて、活動します。

そんな我々の活動に興味のある方は、ぜひ、お便りください。

→mawaruazarashi@yahoo.co.jp

 

 

 

 

11月23日(土)にやること ※参加者募集中

2019年11月23日(土)に、というか今月の23日に、

東京は中野近辺で以下のようなことをします。

 

「既成戯曲と戯れてみよう」

 

(概要)

イ)ローリングあざらしの来年以降の活動として、既成戯曲の上演というテーマが出た。

ロ)でも一体どんな戯曲が上演に相応しいのだろう?

ハ)新作戯曲は、著作権とかが面倒くさそうだし、正直、良い戯曲でも、それをわざわざ僕たちがやるのもなぁ。かといって古典劇はそんなによく知らない。

ニ)じゃあこれを機に、色々読んでみればいいじゃないか。

ホ)読んだあとに、自分だったらこうやって上演したいとか話せば良いじゃないか。

ヘ)というのを複数人でやって、一番良い案を決めよう!

ト)つっても、上演するとは限りませんが、そもそもこうやって戯曲を読んで、やいのやいの言うのをやったことないから、やってみたい。

 

(スケジュール(仮))

11:00 中野集合

11:10〜12:00 or 12:30 中野区中央図書館にて、各々がグッとくる戯曲を探す。(合計15冊まで借りられる)

12:00 休憩ほか

13:00 公民館などで、リーディングor黙読

16:00 どの戯曲が上演にふさわしいか討議

18:00 投票によって上演にふさわしい戯曲を決定(実際にやるかどうかは未定)

 

というのをやります。

現段階で3、4人参加予定。

 

後腐れのないイベントにしますので、戯曲と戯れてみたい人はぜひ、

われわれに連絡ください。

 

→mawaruazarashi@yahoo.co.jp

に何かしら参加の意志の伝わる文面をお送りいただくか、

↓トゥウィターにリプライいただければ

twitter.com

 

プロフィールにシアターグリーンが云々書いてある奴はパスワード忘れて更新できなくなったやつなのでご注意を。なまえの最後に(2019)がつく方が正解です。

 

大島

Record(山下)

公演が終わって一週間くらいである程度書いていたのですがその後の推敲と投稿に時間がかかってしまった。

ーーーー


三ヶ月くらい前、私は台本に「二人は限界があるよね」というセリフを書いていた。


個人的には最後までそのセリフを入れることを試みていたのだが、結局そのセリフを入れることも言うこともできないまま終わるまでずっと二人だった。

本番を迎えても「やっぱ二人は限界があるよなァ」とおもっていたし、終わった三週間くらい前も「限界あったよなァ」とおもっていた。

わかっちゃいたが全部やるって狂ってるワラウ。


しかし別に悲観しているわけではない。

悲観?初めからわかっていたのだから、悲観もクソもない。

もちろんできあがったモノのクオリティ云々について言われると何も返せないのだがいやでもそういうのも込みで作ったわけなので云々。

できる範囲をここで(今)知れたのは良かったし、あと出来ることはおもったより、あったのだ。



具体的な経過や方法はもう書いてくれたので省く。

クオリティに関しても加味しない。

◇台本について

▶︎既出の通り、今回は「共作」且つ「私戯曲」。

互いに初めて、「共作」という方法だったので、めちゃくちゃ難しかった(面白かった)。

うまくいったと思う点も、予想外(これは物語の内容的にだ)だと思う点も、作りたかった形もたぶんお互い全然違う。っていうかそんなもの無かったんじゃないか?


結果、私戯曲だけどどちらも知らない物語になったし、この物語の知らないところが私たちにもまだあるはずだ。

共作でなければ生まれなかった、余地とか可能性とか物語。

内容(と実際の状況のヤバさ)とは関係なく、その状況はちょっと面白いなとおもう。


▶︎ただ、やはりはじめにゴールは設定すべきだなと個人的にはおもった。

「アラスカで鹿に食われる(て死ぬ)」

というゴールはあったけど、それだけでは厳しいものがあった。

そもそもゴールに何も無いから、ゴールがどんどん移動する。

移動するゴール[ラスト]にたどり着くための物語[過程]をつくるのは、そりゃしんどい。

執筆にライブ感があり、それは新鮮な感覚だったのでただただ何を書けばいいのかわからなくなった。で、曖昧に


まぁだからこそ書けたセリフもあるし、ああいうラストになったとおもっている。




▶︎私戯曲に限らないけど、フィクションとフィクションじゃないところのバランスは大事だし難しいよなと改めておもった。

どう書けば、何が、観客に伝わって受け取って想像するのか。

想像しないかもしれないわけだしそっちのほうが多いのでは?


いつも以上に受け手を考えて書けたのも、他者がいたからこそだとおもう。


しかしながらこれも、多少似通ったところがある我々が互いに指摘したり意見しているので、どこまで観客に許容されているのかは本当に不明。



〝そんな〟シーンの思い出は私にもたぶん大島くんにも無いけれど、確かに私戯曲。

そして、誰かの思い出にあることができればとおもうばかり。




(この辺から記録に飽きてきているので雑になる。)

◇役者について

役者、私に関してはほとんど高校生ぶりだった。

ブランクしか無いのだが、あの時よりできることが多少あった気がしている(怖いものがないのつよ)。

できないこともいっぱいあった。

読み込まれたデータ[小池栄子とか]以外[ぺぺ]を表示できなくて(クオリティは加味しないって言いました)、一昔前のロボットかよとなぜかかなしい気持ちになった。


本番は想定していたよりずっと冷静だった。

が、客観視はできていないとおもっている(役者についてだけの話ではないけれど)。


上演中、[我々が書いたセリフを我々が感情を込めて我々が発話している]ことに気持ち悪くなって引いてしまった瞬間がある。

技量の問題かしら?

……いやでもどんなセリフだろうが、テメェで書いたものをテメェが感情込めて読んでたらシンプルに気持ち悪くない???私戯曲だから?(元も子もない)

技量の問題?え?

何はともあれその感覚を忘れてはそれこそキモくなるとおもうので今後のために記録しておく。




◇演出について

既成戯曲で演出だけやるのやったほうがいい。

今後の活動に加えたい。


34日でなんとか全てのシーンに演出(?)をつけられたのはよかった。

そうおもうとめちゃくちゃ演出家の大島くんと私が優秀だったように見えるな。

ポジティブ!

が、何かを記録できるほど演出をやったとは言えないので以上とする。


メモ

・前にも書いたがどこまでを劇作の段階で想像しているか        

・美術も(空気感)




◇宣伝について

フライヤーはもう少し刷ってもいいかもしれない(※人員がちゃんといる場合)


いつだって「観てもらいたい」以上でも以下でもなくて宣伝メール、ツイッター、各種本当に困ってしまう。

なんだろ「(観て)罵倒してほしい」とかあればもっと来てくれるのか?

とフとおもってしまった。


どうすれば来てくれるかなんて、作者や出演者にまず興味が無ければ無理じゃないですか。

あなたに好きになってもらうしかない。

その為には、やっぱり面白いものを書くしかない。それが呟きであろうが。






記録としては、こんな感じで終了させていただければとおもう。

書いて消した事項もあるし、書かなくてよかったこともあるかもしれない。

が、まぁ、これくらいで。




最後になりましたがご来場くださった皆様、応援してくださった皆様、

改めまして本当にありがとうございました。

差し入れもハイセンスなものばかりでおいしい!最高!だった。


それではまた

山下

公演アーカイブス⑤ 公演アンケート

まぁ、当たり障りのない範囲で。もちろん匿名で。

しかし、とにかく、客数に対してアンケートの回収率がめちゃくちゃよかったです。

なぜじゃろう? 85%くらい? 演劇見たことない人の割合も多めでそれはよかった。

 

★よくわかったところ

・仕事したくないの繰り返しで年だけとっていくところ

・通勤電車は海のようだという視点

・わりと全体

・全体的にわかりやすかった

・現実と虚構がミキサーにかけられたみたいにくだかれるも、また自然と現実に戻っていくとこ

・黒板に書いていた絵

・なかった

・ゲームの主人公の性格を決めるところ

 

☆よくわからなかったところ

・ペペとエミオールがいつのまにか仲直りした

・よくわからないけれど言葉はぐさぐさと入ってくる感じでした

・大島、山下、ペペ、エミオールが混同しすぎて、よくわからなかった部分もあり、逆に説得力が出て、よくわかったり、結果として見ていて面白い混乱があった

・ペペとエミオールにとって「物語」とは何だったのかがもっと深く知りたかった

・すこし話が長く中だるみがあるかなって思いました。

・ズバリなにを伝えたいのか?

・だいたい全部

・だいたい全部(2個目)

 

★印象に残ったシーン・セリフなど

・生徒会はバカしかいないといっていたところ

・物を書く人が普通のことを書かず、暗くなるというところ。

・名札に「役者」や「制作」など書いているのがわかりやすくてよかった。

・鹿に食われるシーン

・「泣けば良かったんだ」というセリフ

・電車に穴がたくさんあいて赤・黄・白などの光が差し込むところ

・ホタルLEDにできるのにツボった

・おじいちゃんの身体能力に驚いた

・ビニールシートでのいじめ

・火星のシーン

・もこみちと小池栄子のくだり

ロックマンと射精

・冒頭のボブとジグのシーン

 

☆その他、自由な感想

・初めてこういうものを見たので、どこが良くて良くないのか判断がつかなかったが見れて良かった

・入ったとき部屋がいいにおい

・演劇ってすごくいいものなんですね

・どういう過程があってこの結果になったのかが気になった

・当パンの山下の文章がすごくわかると思った

・陽気な音楽で食べられるシーンは狂気

・人形生々し過ぎる

・自分にはちょっと難しかった 

・演劇がやりたくなった

・冒頭のお百姓さんのイオンのシーンが引っ掛かった。

・2人だけの手作り感がよかった

・アザラシが自分の油ですべるのは草

・かろうじて芝居になることを探っているように感じた。われわれはもっとズルしていいと思う。

・ロックだなと思いました

・撲殺とあざらしのロゴがすごくかわいい!

・親と来ていたので、気まずかった

・散らかってるイメージがある。面白いシーンはあったのでもう少しまとめてほしい。

スペシャルサンクスに自分の名前がない

・ギャラリーの空間がすごく良かった

・芝居(舞台?)とお客さんの間にこんなに境界がない舞台を久しぶりに見た

・なんだか優しい世界に感じた

 

見てない人はなんにもわからない。

この感じがグーですね! 

 

 

公演アーカイブス④ 制作について思ったこと

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写真は公演会場近くにあったダンススタジオの看板。魅力的な惹句が踊っている。

※極めて整理できていない文章。でもそのまま行こうという生理なので、そのまま。

たとえば「観念的な話」

例えば、演劇をやって有名になりたいとか、演劇で食っていきたいとか、そういう欲望(あるいは夢)があるとするならば、それを実現するのは、劇作でも役者でも演出でもなく、制作だと思う。

というより、上に書いたことはじつは制作に属する夢なのだ。

だって有名になるとか、食っていくとか、そういうことは、じっさい、1ミリも演出や演技や劇作に関係がない。

 

持続可能になるということ。

より満足に行うということ。

 

それは制作的な欲望なのだ。

例えば、

より良い演出を使う(金銭的に)より良い演技が出来る(人脈、金脈によって自分の持っているもの以上の演技力を使う。いい役者にやってもらう)劇作に使う時間を確保できる。劇作に利する刺激(仲間、場所、取材、勉強)を得る。

 

ということを可能にするのは制作だし、

それを可能にしたいと言う欲望自体が、下手すると制作の領域ではないかと、

 

先ほど、ふと思った。

 

(ここまで書いて自分の理屈に疑問がわく、そんな「制作」とか「演出」とか「演技」など、演劇行為に必要な仕事を細分化して、差別化する必要ある? ない。ないのだが、分業する際には便利なときがあって、かなりよく使われているパート(役割)化だ。だから、そういうことを分けて考えて来た人にはわかりやすい。そして僕も分けて考えていることは多い。ほんとはないのにね。そんな区分け。フィクションなのに。でも音楽とか、絵画とかも実はフィクションだしな。物語とかも。それらは人生と密着していて、演劇と人生、フィクションと現実とかいう区分けも無意味と言う感じはする。するのだ。いま。)

 

(あと、結局、世の中金脈(金)と人脈(人)なのかよ、って感じで腹正しいが、僕の体にも動脈とか静脈とか色々あるし、山脈とか鉱脈とか気脈とか、脈々と受け継がれる伝統とか、逆らわない方がいい脈と、むしろ断固として逆らった方が面白い脈はあって、いやむしろあったりなかったりするのが脈で、今回2人だけでやってみたのだけど、だけど、それにしてもお客には見てほしかったわけで、結局、金はともかく、人はいるし、人が食うためには金がいるのが世の習いだ。まったく困ったもんだ……!)

 

そもそも、生活が制作だ。飯を食いながら稽古を続けたり、浪費をセーブして、次の公演を実現可能にするということ。

 

金を稼ぐ(演劇以外でも)予約(ブッキング)する。

メールする、Lineを送る、レシートを保管する。

人を説得する。殴る(今は近代じゃないのでだめ!)祈る。蹴る。喚く。

 

生活(演劇)をする上で、

 

当パンは刷らないと紙にならない。

役者は連絡しないと来ない。

お客は宣伝しないと来ない。

 

役者をつなぎ止めるためにあれやこれやをする。

演出を可能にするためにあれやこれやをする。

劇作蟹に鞭打つために、鞭を打つ。

カニは茹でた方が体に良い。

 

なにもないところにはなにもないから、目を向けない。

建物から立てようとする制作もいるかもしれないが、大概はすでにある建物に入っていき、そこを会場とする。

 

芸術的な話をするならば、

がぜんアンケートだって読むし。

そこはもう自分の考えを持って読む。

自分の考えを持って読むから、アンケートには何が書いてあっても構わない。

自分の考え通りにするための資料に過ぎない。

劇作家や役者がどんな腹を持っていようと、その劇作家や役者が自分自身であろうと制作(制作)は自分の考えを持っているし、そのために制作(人生)は様々な障害(私の場合はおもに怠惰な自分とか)と闘ったり、逃げたりする。

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「褐色の恋人」スジャータの工場はアフリカを象徴する3色で塗られている。まさかこんなに攻めてまで「褐色の恋人」感を大事にしているとは知らなかったが、この色を見ると陽気さだけではなく色々なことを考えてしまう……アフリカ……コーヒー……南米……レゲエの歌詞や曲調は明るいものばかりではないのだ。ともかく本来は赤いはずのスジャータの文字が脱色して白人の肌と同じ色に見えるのは偶然にすぎない。

 

たとえば「現実的な話」

3、4年前の公演『エキゾチック』でも制作的なことをした。

公演を打ちたいと思ったから、打てるようにした。

スタッフを集めるために、Lineを打ち、

こりっちに登録し、学生であることを証明し、無料で利用できるようにした。

役者を集めて、予約開始日を決めた。

 

そして、終わった後に、役者の一人から(おそらく)他意なく「次はちゃんとした制作の人をつけられたらいいね」と言われた。

きっと作品としての芝居のプロダクションと、公演制作業務の時間の配分とか、役者に制作的なことを担ってもらうための(予約管理とか、質疑応答とか)アプローチがクソであったのだろう。

だから、そのとき僕は、自分はやっぱり制作は向いていないのだなぁと思った。

 

再び観念的な話。

だがやはり「制作に向いていない」というのは「生活(人生)に向いていない」というのに近いものがあると今は思う。

どの道もアリだ! というのが人生(制作)だが、邪悪な手を使ってでも、自分の考えのために、動かなければナイスな制作(人生)はできないのだ。

 

再び現実的な話。

それから3年分歳を取ったわけだが、その間に制作(もちろん演劇の。これは観念的な話ではないので)の経験を積んだわけでもない僕は、当然、何一つ上手にはなってない。

 

今回は前より時間をかけて制作した。

もう一年以上、演劇と関わるための、これ(ローリングあざらし撲殺、再びその名前にしたのは2019年の1月からだが)を続けているのだけど、その活動の一環として。

山下と相談しながら、断続的に、だらだらと戯曲を書きながら、公演場所を探したり。

公演なんて本当に成るのかよ、と思いながら。 

 

その間、違う舞台に役者として出たりしながら、微妙に折り込みさせてもらったり。

(いよいよ後には引きにくいが、とくに引く理由はないしなぁ〜と思いつつ)

 

一番「制作」を意識したのは、公演1月前くらい。

仕事の昼休みに、チラシを入稿したときだ。

 

そのままチラシを入稿するのみならず、

新しく作ったTWITTERのロー撲のアカウントでフォロバ目当てにフォローしまくった(しまくってるフリしながらじつは結構厳密に選んでた)そのアカウントでチラシヴィジュアルを公開した。

 

というような行為がびっくりするくらい、戯曲を書くことや、稽古をすることとかけ離れていて。そのことにとても新鮮さを感じた。

(こ、これは、むしろ仕事に近い……! やればやっただけ、ある程度のリターンが見込める! トラブルもあるが、そのトラブルすらも、わりと社会の法則に従っている……!)

 (だって、書いても書いても、それを全部ゴミ箱に捨てたりするのって、正気の沙汰じゃないじゃないですか? ソレに比べて、この行為は明快だ)

(一夜かけて書いたものを捨てて、仕事に行く前の朝の1時間に書いたものが採用されたり((採用しているのはおれだし、それも倒錯している))まぁ、実際今回徹夜とか全くしなかったんですが。)(ソレに比べて)すごく、ドライで、スマートで、アーバンな喜びがあったのだけど、それはあくまで自分の公演だから、モチベーションがあるからだなぁと思いつつ。

でも、やっただけ、明確に進むというのは、なかなか堪えられない魅力があるだと思った。それに基準が自分ではなく「他者」にある(自分の原稿を自分で没にするのではなく、やり方が間違ってて、チケット管理サイトの設定がうまく行かなかったりすること)というのは、何とも言えない健全さがある。

 

前述した通り、制作的なスキルは全く伸びていないが、

制作業務にある種の快感を感じたのは、今おれが社会人で、仕事を(他者と共有している物事の有り様を変える)していて、そのことに多少慣れてきたからだと思う。昔ほど苦には感じない。自分の殻の外側のものとの作業に。

 

そんなものが実在するのかわからないが、自分の殻の外側と関わる作業によって、失われるような創造的才能は、幸い、たぶん僕にはないので、これからも、どんどん制作業務は担っていきたいと思う。

 

観念現実を往還しながら、制作がもっとできれば色んなこと(人生)ができうると思った。