本作りを終えて 大島
おととい入稿が完了した。
とてもバタバタした。
私の作成した原稿データが、入稿に適したサイズになってなかったことが判明したり、
文字切れが起るレイアウトになってたり、 そもそも文字を詰め込み過ぎだったり、
色々、知らなくて、甘々だった。
そもそも印刷所に入稿する前に予約がいることなども知らなかった。(考えてみれば当たり前だ。印刷所にだって、一度にさばききれる数がある以上、予約制になるだろう)
あと本って、そもそもどういう作りをしていたっけみたいな所(日本語の本は基本右綴じだが、横書き文章は左綴じの方がしっくりくる、とか。)すらわからなかった。
改めて向き合わなければ、わかってないことすら知らなかった。そういうことがたくさんあった。
そんな大変なデータを入稿してくれた山下に感謝したい。
正面切って感謝するのは照れくさいが、そこはもう欧米人的な感じでいきたい。 と思う。
あと、校正に来てくれて色々言ってくれたTくんにも感謝です。
今回の雑誌作りにも反映させて頂いた部分もあり、 また反映しきれなかったことは次回以降の活動に活かしたい。
CDアルバムや本の最後とかにたくさんの人に感謝捧げるの、 読者としてはとくに何も思わずに見ていたけど、そういうこと書く人の気持ちがわかりました。
読者にはやはり関係ないが、それでも、やっぱ言ってしまうものだし、 それで良い。
★反省点
よかったことより先に反省点を書こう。よかったことで締めたいので。
・「雑誌」ではない? 一体これはなんの本?
「雑誌」である必然性は特にないのだが、結構早い段階から「雑誌」という言葉を使っていたので、それならもうちょっと「雑誌らしさ」について考えたり山下と話しながら作ってもよかった。
ゲストを招いた校正会では「雑誌とはなにか?」ということについても少し話した。
例として会場に持参した『BRUTUS』の特別編集号「クラシック音楽をはじめよう。」を引き合いに、
雑誌とは「コンセプトがくっきりして」いて 、主観的、作品的な記事のみならず「知りたいことについて情報が得られる」というところがポイントではないか、
というような話をした。
クラシック音楽について知りたいから読みたい。
文芸誌なら(読みたい作家やテーマの)小説や随筆などがいっぱい載っているから読みたい。
というような、雑誌には「読みたいかどうか事前に判断できる感じ」があるのでは?
また「雑誌でない」とするなら、それは何についての「どんな本」なのか?
これが「何の本なのか」ということがわからなければ、お客さん目線で考えると、けっこう読むか迷う。
それでいて「これはなんなんだ!?」「まとまらなくてもいい、俺たちの全てを込めるんだ」みたいな方針、パッションや必然性もとくになかった。
そして例えば文学フリマの会場で何冊売りたいのか。
売らなくても良いのか? そこは考えているのか。という話から、
「どれだけ内容が良くても、それが伝わらなければ、手に取ってくれないのではないか?」
という命題がみつかった。
売ることを意識しないなら、代わりに、それなりの「やりたいこと」みたいなものはあるのか?
はたまたそういうのをぼんやりしたままでも「とりあえずやってみること」に意味はあるのか?
演劇の公演にも繋がる話だった。
以上のようなことについて、校正会よりもっと前に、打ち合わせてしかるべきであったのかもしれない。 あまりにも編集方針がなさすぎた。話をしなさすぎた。
・勉強をしなさすぎた。
何かを集中的に勉強する動機付けとしての「本作り」はどうだろう? というのが個人的には「本作り」をしようと決めたきっかけだった。
文学フリマというイベントに参加してみたかったというのもでかいが。
公演のためなら集中して稽古せざるえない。
そのように、
本を作るためには集中して勉強、調べ物などをせざるえないのではないか、と考えた。
おそらく、この考え方は間違っていなかった。
今回は、はっきりしたテーマがなかったのもあり、あまり勉強そのものと親和性の高い企画はなかったが、 どのような企画でも学びの種はあった。
例えば、インタビュー記事に関しては、人間の話し言葉は、かなり補わなくては読み言葉(=書き言葉に近い)にならない。ということなどがわかった。
またインタビューして、相手の発言の中に知らないことがあれば調べたし、ときに注釈を書く必要もあり、調べざるを得なかった。(うがった言い方だ)
本作りにはTwitterで呟いたりするより、責任が伴うような感じがしたから。 (でも、本当は、Twitterで呟くことにも責任は伴うし、また、本にデタラメを書いたって構わないのかもしれない)
というように一定の学びを強制する力はあった。
だが、それをどこまで追求するか、ということでなまけてしまえもした。
明確に勉強を要求する企画を立てなかった為でもあるし、 どのような企画であれ本当は必要な勉強を、ある程度しかしなかったことでもある。
上記のどちらに関しても「時間がなかった」とも言える。
「時間がなかった」というのは 「時間の使い方がなっていなかった」と言い換えられる。
われわれは正直、めっちゃ時間掛けた。捧げた。 でも、足りなかった。
掛けた時間の量ではなく、使い方があんまりよくなかったのだと思う。
とにかく、次になんかするとしたら、もっともっと楽がしたいものだ。
だがすべてはこれでよかった。
それを前提に幾多の反省点を思い返しながら、次に進む。
★よかったこと
①完成したこと。
完成しなかったにしても、過程は学びになったに違いないが、 完成したことが誇らしいし、素晴らしい。
この雑誌(?)にどれだけ足りない所があったとしても、その足りなさを形にすることができた。
本当に偉業を成し遂げたものだ。 ちょっとだけ夢想する。
この数十部しか刷らない雑誌が、もしかしたら、将来どっかの離島の本棚とかにぽつんと置かれているかもしれない。そこでわれわれとは世代も何もかもが異なる子供が手に取って読みはじめるかもしれない。
形になるということはそういう可能性が生まれるということだ。
べつにそうなるのが素晴らしいということではない。
ただ、そのような可能性が本というものにはある。
もっと、リアルな話をするなら、まずぼく自身が読み返して、思い出すだろう。 自分の間違いや、愚かさや不明、もしかしたら良い所を。
ブログにしたって、ツイッターにしたってそうじゃん、という向きもあろうが、 そして、それは正しい部分もあるが、それにしたって、僕は物体の魔力を信じている。
本は独立した物体として完結している。 はてなブログとも、ツイッターとも(僕自身とも?)関係なく、物体として存在する。
②色々失敗したこと。
単純に、次はもっと良くなるに違いない。
次があるかはわからないが、 反省にも書いたたくさんの失敗は挑戦した結果得たものだ。 だから、これでよかったのだ。
きっと次はしっかりしたテーマの元に、 多くの知見のある素晴らしい雑誌が、またはあきらかにこれはヤバいとわかるようなカオスな物体が作れるに違いない。
校正のときには「雑誌て何?」みたいな話にならずに、もっと校正(誤字を直したり、レイアウトのミスを発見したり)らしいことができるはずだし、
何よりきっと入稿前に予約することだろう。そうすれば割引だって受けられる。
★どんな雑誌になったか。
友達やクリエイターのインタビューほか、ローリングあざらし撲殺の活動についてほんのりふれたり、山下と大島、おのおのの戯曲や小説、エッセイなどの作品をまとめた、まさにローリングあざらし撲殺の本となった。
2019年に上演した山下と大島の共作台本『ペペとエミオール』完全収録! 90ページ。定価500円
5/16(日)文学フリマで販売予定!
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