ローリングあざらし撲殺活動記録

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2023.3/4(土) ハムレット会前夜④諸説や緒言

・諸説

・シャイクスピアの芝居で一番長いと言われる。マクベスの2倍くらいあるという噂。

 

・5幕2場の芝居とされているが、それは18世紀の学者が分類したことらしい。シェイクスピアの劇団、キングス・メン(国王一座)が常打ち小屋にしていたグローブ(地球)座はプロセニアム・タイプの劇場ではないので幕はない。半野外劇場で、奥の席には屋根があり、舞台に近い屋根なし席が一番安い。大向こうとは、この屋根なし席の観客を指す。

幕もないことだし全部通しで上演したのではないか、めちゃくちゃ早口だったのではないか、という説がある。元々シーンに番号がふられており、それは20まである。ちなみにマクベスは28。

 

ハムレットは30歳。墓場のシーンのセリフなどから推察される。

 

ハムレットには肥満説がある。

最後決闘の場面でガートルードがセコンドよろしくハムレットの額の汗をハンケチで拭うが、

福田役だと「あの子は汗っかきですぐに息切れするたちだから」とか言っているが、

坪内役では「肥り肉(じし)がゆゑ息が切れう」となっている。

原文は「he’s fat, and scant of breath.」

またハムレットをあてがきで演じたというサー・リチャード・バーベッジ(当時37歳くらい)は肖像画を見る限り、けっこう巨漢だったらしい。

 

・レアティーズがフランスに留学していたのに対し、ハムレットはドイツに留学している。

当時はルネサンスの時代で、イタリアとフランスが先進国なイメージ。(→快読シェイクスピア

 

・オフィーリア周りについて

「オフィーリアのセリフ、身分が上であるハムレットに対するものとしては結構尊大なので、ポローニアスに仕込まれていた言葉をそのまま言っていた」説がある。→松岡和子『快読シェイクスピア』など

「これに対し、どうしても演技することができないのが、オフィーリアで、父に命じられた通りのセリフを口にするが、それが与えられたセリフであることがすぐハムレットにばれてしまう。(ちくま文庫ハムレット』の解説より。河合祥一郎)」

『快読シャイクスピア』の松岡和子と河合隼雄の対談では「なんだかんだポローニアスはハムレットとオフィーリアがうまくいけばと考えていたのでは? 玉の輿に乗って欲しかったのではないか」という話もされている。

 

「尼寺(NUNNERY)は俗語で売春宿を意味する」(『シェイクスピア劇とジェンダーアイデンティティ』47P)→尼か娼婦かでセリフの解釈がだいぶ変わる? それとも変わらない?

 

ハムレットの種本について

13世紀にラテン語で書かれた古代デンマークの歴史物語の一部「ハムレット物語」が元である。しかし、シェイクスピアの作品以前にも、16世紀末にトマス・キッドという作者による『ハムレット』が上演されている。しかしこの戯曲については上演の事実以外なにも残っていない。

 

デンマークの『ハムレット物語』のあらすじ

デンマークの1人の貴族が辺境ノルウェーの王を倒した功績で、王の娘婿となり、やがては即位。これを妬んだ彼の弟は、兄の妃を誘惑して姦通した後、大食堂で突然兄を斬り殺す。驚く人々に「兄は、自分と妃の間にあらぬ不義の疑いをかけ、妃を殺そうとした。私は妃を救ったのだ」と宣言し、兄の後釜に据わる。亡き兄王の息子ハムレットは狂人を装い叔父を油断させる。叔父はハムレットを女色に溺れさせようと、ハムレットの乳兄妹である娘を彼に近づける。同時にもう1人の乳兄弟である男がハムレットの親友になって危険な回し者である娘を警戒する様に告げる。あれこれあって、ハムレットは母ガートルードと水入らずで話す機会を得て、自分が敵討ちのために気狂いのふりをしていることを打ち明ける。ガートルードは己の罪を悔い、ハムレットの復讐に助力することを天に誓う。叔父はハムレットをイギリス送りにして、そこで殺す謀略を企てる。イギリス行きの船上でハムレットは廷臣2人の寝入った隙を突いて、叔父からイギリス王への親書を見つけ、「ハムレットを殺せ」という文言を「廷臣二人を殺せ」に書き換え「イギリス王の娘を妻としてハムレットに与えよ」などと書き添える。ハムレットが英国を脱出し、帰国すると自分の葬式の真っ最中だった。そして彼は復讐を遂げる。

 

(以上は1949年版岩波文庫の解説から大島が要約したもの。)

 

じつはデンマークの『ハムレット物語』における主人公の性格として「過度に憂うつな人」と書かれている。のみならず、この憂うつ病は未来を予言する力、一種の神がかり的精神状態を患者に与えると特筆されている。

 

シェイクスピア版でも臨終の際、唐突にフォーティンブラスの即位を予言するハムレットが描かれている。

 

デンマークでは何かが腐っている説」

なんだか怖い話。冒頭の深夜の見張りの場面。

「誰だ!?」という誰何の声で始まるこの芝居だが、これを発するのは、先に見張りをしていたフランシスコーではなく、交代するために来たバーナードである。

これは常識的に考えておかしいので、この劇の世界は初めから条理が狂っているという説がある。めっちゃ怖いと思う。

デンマークでは何かが腐っている」はハムレットのセリフ。諸々の裏に吸血鬼とか悪い魔物がいるみたいでカッコいい。悲劇はぜんぶ吸血鬼や悪い魔物の仕業かもしれない。

ちくま文庫版『ハムレット』の翻訳家松岡和子による注ほかより)

 

 

・緒言

 

ハムレットとはどういう劇か

「『ハムレット』だが、この作はネガティヴに見ると、父の亡霊の命令を直ちに実行しなかったために、みずからを含めて作中の主要登場人物全部が破滅して殺され、他国の支配に国を委ねるという痛ましい筋立てになっている。」中村保男(新潮文庫版『ハムレット』の解説より)

 

 

 

●この劇における登場人物間のホモソーシャルな関係と、ハムレットミソジニー

 

ハムレットミソジニーとエディプスコンプレックス(父を殺しは母と交わりたい欲望)はよく言及される部分である。

以下『シェイクスピアジェンダーアイデンティティ』(伊藤洋子著、近代文芸社、2008年)から引用する。

この劇の復讐のテーマは、父子関係のモチーフを通して重層的に表現されている。劇における3組の父と息子たち。すなわりハムレット父子、フォーティンブラス父子、ポローニアスとレアティーズの父子は、みな固い絆で結ばれ、3人の息子は死んだ父親によって復讐を運命づけられている。さらにこの3組の父子関係の他に、ハムレットとホレイショ、クローディアスとポローニアス、さらにはクローディアスとレアティーズの主従関係ですら、男性同士の友情や共通の利害によって強い絆で結ばれているのだ。

 ハムレットとホレイショの関係はもっとも象徴的である。ハムレットは「感情と理性が見事に調和している」(3幕2場59行)ホレイショに対する17行もの賛辞の中で、「君を心から大切に思って、胸の奥に飾っている」(3幕2場63-64行)という愛情告白めいたせりふさえ口にする。彼は女性たちには決して見せたことのない全幅の信頼をホレイショに寄せ、彼だけに自分をさらけ出すことができる。終始控えめで受動的なホレイショの言動と安定感には女性的なものが感じられ、ハムレット代理母のような印象さえある。

敵対関係にあるハムレットとレアティーズ、ハムレットとフォーティンブラスにおいても例外ではない。心ならずも敵対する運命になったとはいえ、ハムレットはレアティーズやフォーティーンブラスに対して同志的友情さえ抱いており、その賞賛のことばには、女性たちを排除したホモソーシャルな気配さえ感じられる。(44p)

 

この劇の男性登場人物は、対等な人間同士として生身の女性たちと望ましい関係性を結んでいるとは言いがたい。亡霊は生前妻を熱愛し、死後も妻に深い執着を示すが、クローゼットシーンでの亡霊の’Conceit in weakst bodies storngest works’」(第3幕4場113行)というセリフにもあるように、女性は男性が庇護すべき弱く劣った子供のような存在なのである。ハムレットの女性に対する独りよがりの愛情表現や、その裏返しの女嫌いと結婚恐怖症は、まちがいなく父親の女性観ーーパラノイア的執着とそれと表裏一体の女性蔑視ーーを受けついでいるように思われる。また妹に繰り返し「処女性」の危うさを説くレアティーズのせりふは、父ポローニアスのダブルスタンダード的女性観ーー男は身持ちが悪いのが常で、女の最高の商品価値は処女性であるーーと響きあって、オフィーリアを追いつめたと考えられる。(49ー50p)

 

ハムレットミソジニーを剥き出しにして母を直接攻め立てることで、母に対するエディプス的とらわれから脱し、「律法」を代表する父と同化し、「男性としての自己同一性」を獲得する。

英国追放の直前、ハムレットが叔父に向かって’dear mother’(4幕3場46行)と呼びかけるシーンに注目したい。このせりふはクローディアスを男と認めず、父と呼ぶことを拒否し、母との一体化を揶揄したことばであると考えられるが、亡き父との象徴的一体化をはたしたハムレットの叔父への宣戦布告とも解釈できるし、母に対する決別の言葉とも考えられる。(52p)

 

彼の激しく辛らつな女性攻撃は亡霊によってせき止められた母への呪詛が変形したものとも考えられる。4幕の尼寺のシーンはその典型であろう(50-51b)

 

(伊藤洋子『シェイクスピアジェンダーアイデンティティ近代文芸社,2008年)

 

 

●戦争戯曲としてのハムレット

 

二度の大戦を経験したブレヒトは(一度目は未成年の兵士として、二度目は中年の亡命者として)、血塗られた時代に生きている自分には『ハムレット』はこのように読める、という。

 

「戦時。ハムレットの父、デンマーク王は、侵略戦争に勝利を収め、ノルウェー王を殺害する。ノルウェー王の息子、フォーティンブラスが新たな戦争の準備を進める一方で、デンマーク王もまた、弟に殺される。死んだ王たちの弟は、それぞれ王位に就き、和平を締結する。ノルウェー軍は、ポーランドへの侵略戦争への途上、デンマーク領を通過することを許可される。(……)野蛮な殺戮が繰り広げられ、ハムレットは叔父と母と自らの命を絶ち、デンマークノルウェーのものとなる。このように考えれば、もう一人前になった若者が、こうした状況に置かれ、ヴィッテンベルク大学で得た知識の使い方を誤る姿が見えてくる。その知識は、封建的世界の紛争を解決する上では邪魔になるものなのだ。彼の理性は非合理的な現実の前では役に立たない。彼は、理性的思考と行動の乖離の悲劇的犠牲者だ(ブレヒト『今日の世界は演劇によって再現できるか』千田是也編訳)

 

 

 

 

古典はさまざまなことと関連づけて読み方ができる。同じ様なことが、いつの時代でも起き続けているからだ。

以下、マイケル・ボグダノフ『シェイクスピア・ディレクターズ・カット 演出家が斬る劇世界』(近藤弘幸訳)から引用する。

 

「『演劇は、常にその時代が要求していることに敏感であるべきだ』戯曲の焦点は、絶えず移動する。その時代、その時代の事件によって、それまでと異なる側面が、突如として重要になる。(……)数年前『ハムレット』は完璧なウォーターゲート劇だったーー盗聴あり、尾行あり、立ち聞きあり。(……)あるいは、18年ほど前なら、フォーティンブラスのポーランド侵攻について語る隊長の言葉は気味が悪いほどに、フォークランド紛争のことを言い当てていた。展開された兵員数、紛争地域の位置付けまでそっくりだ。」

隊長 (……)形ばかりで何の値打ちもない土地です。地代がただの5ダカットと言われたところで、耕す気にはなれない。(……)

ハムレット それならポーランド王も守ろうとはしませんね。

隊長 とんでもない。すでに守備隊が守りを固めています。

ハムレット (……)おれが見ているのは

     死に急ぐ2万人の男たちだ、

     名誉という幻想にとりつかれ、

     寝床を求めるように墓場へと向かい、ちっぽけな土地のために戦う、

     あれだけの軍勢を展開するだけの広さもない土地、

     戦死者を弔う墓地にも狭すぎる

     土地だというのに、

 

(マイケル・ボグダノフ『シェイクスピア・ディレクターズ・カット 演出家が斬る劇世界』近藤弘幸訳 研究社 2005)」(……)は大島が引用文を省略。

 

 

この本においてマイケル・ボグダノフは父の復讐を目指すインテリの心理劇として描かれる『ハムレット』とはもう一つの可能性を提示する。それが「北ヨーロッパの権力闘争」の物語だ。

マイケル・ボグダノフは、戯曲序盤でホレイショーたちによって語られるデンマークの軍拡についてのセリフがカットされたロイヤル・ナショナル・シアターの上演について「いかにもロイヤルらしい。ジグソー・パズルを完成させるのに不可欠な、巨大なピースがそもそもの始まりから欠けている。」という。