ローリングあざらし撲殺活動記録

その軌跡。議事録。文章置き場。その他なんでも。

公演アーカイブス④ 制作について思ったこと

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写真は公演会場近くにあったダンススタジオの看板。魅力的な惹句が踊っている。

※極めて整理できていない文章。でもそのまま行こうという生理なので、そのまま。

たとえば「観念的な話」

例えば、演劇をやって有名になりたいとか、演劇で食っていきたいとか、そういう欲望(あるいは夢)があるとするならば、それを実現するのは、劇作でも役者でも演出でもなく、制作だと思う。

というより、上に書いたことはじつは制作に属する夢なのだ。

だって有名になるとか、食っていくとか、そういうことは、じっさい、1ミリも演出や演技や劇作に関係がない。

 

持続可能になるということ。

より満足に行うということ。

 

それは制作的な欲望なのだ。

例えば、

より良い演出を使う(金銭的に)より良い演技が出来る(人脈、金脈によって自分の持っているもの以上の演技力を使う。いい役者にやってもらう)劇作に使う時間を確保できる。劇作に利する刺激(仲間、場所、取材、勉強)を得る。

 

ということを可能にするのは制作だし、

それを可能にしたいと言う欲望自体が、下手すると制作の領域ではないかと、

 

先ほど、ふと思った。

 

(ここまで書いて自分の理屈に疑問がわく、そんな「制作」とか「演出」とか「演技」など、演劇行為に必要な仕事を細分化して、差別化する必要ある? ない。ないのだが、分業する際には便利なときがあって、かなりよく使われているパート(役割)化だ。だから、そういうことを分けて考えて来た人にはわかりやすい。そして僕も分けて考えていることは多い。ほんとはないのにね。そんな区分け。フィクションなのに。でも音楽とか、絵画とかも実はフィクションだしな。物語とかも。それらは人生と密着していて、演劇と人生、フィクションと現実とかいう区分けも無意味と言う感じはする。するのだ。いま。)

 

(あと、結局、世の中金脈(金)と人脈(人)なのかよ、って感じで腹正しいが、僕の体にも動脈とか静脈とか色々あるし、山脈とか鉱脈とか気脈とか、脈々と受け継がれる伝統とか、逆らわない方がいい脈と、むしろ断固として逆らった方が面白い脈はあって、いやむしろあったりなかったりするのが脈で、今回2人だけでやってみたのだけど、だけど、それにしてもお客には見てほしかったわけで、結局、金はともかく、人はいるし、人が食うためには金がいるのが世の習いだ。まったく困ったもんだ……!)

 

そもそも、生活が制作だ。飯を食いながら稽古を続けたり、浪費をセーブして、次の公演を実現可能にするということ。

 

金を稼ぐ(演劇以外でも)予約(ブッキング)する。

メールする、Lineを送る、レシートを保管する。

人を説得する。殴る(今は近代じゃないのでだめ!)祈る。蹴る。喚く。

 

生活(演劇)をする上で、

 

当パンは刷らないと紙にならない。

役者は連絡しないと来ない。

お客は宣伝しないと来ない。

 

役者をつなぎ止めるためにあれやこれやをする。

演出を可能にするためにあれやこれやをする。

劇作蟹に鞭打つために、鞭を打つ。

カニは茹でた方が体に良い。

 

なにもないところにはなにもないから、目を向けない。

建物から立てようとする制作もいるかもしれないが、大概はすでにある建物に入っていき、そこを会場とする。

 

芸術的な話をするならば、

がぜんアンケートだって読むし。

そこはもう自分の考えを持って読む。

自分の考えを持って読むから、アンケートには何が書いてあっても構わない。

自分の考え通りにするための資料に過ぎない。

劇作家や役者がどんな腹を持っていようと、その劇作家や役者が自分自身であろうと制作(制作)は自分の考えを持っているし、そのために制作(人生)は様々な障害(私の場合はおもに怠惰な自分とか)と闘ったり、逃げたりする。

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「褐色の恋人」スジャータの工場はアフリカを象徴する3色で塗られている。まさかこんなに攻めてまで「褐色の恋人」感を大事にしているとは知らなかったが、この色を見ると陽気さだけではなく色々なことを考えてしまう……アフリカ……コーヒー……南米……レゲエの歌詞や曲調は明るいものばかりではないのだ。ともかく本来は赤いはずのスジャータの文字が脱色して白人の肌と同じ色に見えるのは偶然にすぎない。

 

たとえば「現実的な話」

3、4年前の公演『エキゾチック』でも制作的なことをした。

公演を打ちたいと思ったから、打てるようにした。

スタッフを集めるために、Lineを打ち、

こりっちに登録し、学生であることを証明し、無料で利用できるようにした。

役者を集めて、予約開始日を決めた。

 

そして、終わった後に、役者の一人から(おそらく)他意なく「次はちゃんとした制作の人をつけられたらいいね」と言われた。

きっと作品としての芝居のプロダクションと、公演制作業務の時間の配分とか、役者に制作的なことを担ってもらうための(予約管理とか、質疑応答とか)アプローチがクソであったのだろう。

だから、そのとき僕は、自分はやっぱり制作は向いていないのだなぁと思った。

 

再び観念的な話。

だがやはり「制作に向いていない」というのは「生活(人生)に向いていない」というのに近いものがあると今は思う。

どの道もアリだ! というのが人生(制作)だが、邪悪な手を使ってでも、自分の考えのために、動かなければナイスな制作(人生)はできないのだ。

 

再び現実的な話。

それから3年分歳を取ったわけだが、その間に制作(もちろん演劇の。これは観念的な話ではないので)の経験を積んだわけでもない僕は、当然、何一つ上手にはなってない。

 

今回は前より時間をかけて制作した。

もう一年以上、演劇と関わるための、これ(ローリングあざらし撲殺、再びその名前にしたのは2019年の1月からだが)を続けているのだけど、その活動の一環として。

山下と相談しながら、断続的に、だらだらと戯曲を書きながら、公演場所を探したり。

公演なんて本当に成るのかよ、と思いながら。 

 

その間、違う舞台に役者として出たりしながら、微妙に折り込みさせてもらったり。

(いよいよ後には引きにくいが、とくに引く理由はないしなぁ〜と思いつつ)

 

一番「制作」を意識したのは、公演1月前くらい。

仕事の昼休みに、チラシを入稿したときだ。

 

そのままチラシを入稿するのみならず、

新しく作ったTWITTERのロー撲のアカウントでフォロバ目当てにフォローしまくった(しまくってるフリしながらじつは結構厳密に選んでた)そのアカウントでチラシヴィジュアルを公開した。

 

というような行為がびっくりするくらい、戯曲を書くことや、稽古をすることとかけ離れていて。そのことにとても新鮮さを感じた。

(こ、これは、むしろ仕事に近い……! やればやっただけ、ある程度のリターンが見込める! トラブルもあるが、そのトラブルすらも、わりと社会の法則に従っている……!)

 (だって、書いても書いても、それを全部ゴミ箱に捨てたりするのって、正気の沙汰じゃないじゃないですか? ソレに比べて、この行為は明快だ)

(一夜かけて書いたものを捨てて、仕事に行く前の朝の1時間に書いたものが採用されたり((採用しているのはおれだし、それも倒錯している))まぁ、実際今回徹夜とか全くしなかったんですが。)(ソレに比べて)すごく、ドライで、スマートで、アーバンな喜びがあったのだけど、それはあくまで自分の公演だから、モチベーションがあるからだなぁと思いつつ。

でも、やっただけ、明確に進むというのは、なかなか堪えられない魅力があるだと思った。それに基準が自分ではなく「他者」にある(自分の原稿を自分で没にするのではなく、やり方が間違ってて、チケット管理サイトの設定がうまく行かなかったりすること)というのは、何とも言えない健全さがある。

 

前述した通り、制作的なスキルは全く伸びていないが、

制作業務にある種の快感を感じたのは、今おれが社会人で、仕事を(他者と共有している物事の有り様を変える)していて、そのことに多少慣れてきたからだと思う。昔ほど苦には感じない。自分の殻の外側のものとの作業に。

 

そんなものが実在するのかわからないが、自分の殻の外側と関わる作業によって、失われるような創造的才能は、幸い、たぶん僕にはないので、これからも、どんどん制作業務は担っていきたいと思う。

 

観念現実を往還しながら、制作がもっとできれば色んなこと(人生)ができうると思った。